日本の歴史から学ぶ、日本人の精神性

歴史を忘れた民族は滅びる!日本人なら知っておきたい日米開戦史

日米開戦6
加納聖士です。

今年は戦後から70年を迎えましたが、いまだに戦前の日本がおこなった行為はすべて悪であり、弁護の余地がないという風潮が続いています。

私は戦前の日本について全面的に擁護するつもりはありません。

しかし、日本人としてどのような言い分があって開戦(大東亜戦争)の止むなきにいたったことについて、少なくても現代を生きる私たちは知っておく必要があると思います。

ところが、戦後の日本では今日に至るまで、こうした言い分について話したり書いたりすることが、一種のタブーでした。

そこで今回は、あえてこの論点について、日本側からみた開戦までの歴史を振り返ってみたいと思います。

歴史を忘れた民族は滅びる

イギリスの歴史学者・アーノルド=トィンビーは、世界史の中で滅亡した民族について研究し、 その共通点を見つけ、次のように警鐘を鳴らしています。

① 理想を失った民族は滅びる
② すべての価値を物やお金に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びる
③ 自国の歴史を忘れた民族は滅びる

トィンビーによれば、この3項目のどれか1つでも当てはまれば、その民族は滅ぶと言っています。

これに対して戦後の日本は、誰もが経済的な繁栄にばかり目を奪われ、人としていかに生きるべきかという理想、目には見えない心の価値や絆、そして民族としての誇りを育む歴史認識、それらすべてを置き去りにしてきました。

歴史上の出来事には、100%の善もなければ、100%の悪もありません。
すべての出来事は、功罪相半ばしているのです。

しかし、近代史に関しては、ことさら「罪」の部分ばかり強調されいます。

いずれにせよ戦後の日本は、3つの条件がすべて当てはまる「三重苦」が今日まで続いているのです。 

なぜ江戸幕府は鎖国政策を取ったのか

日本は17世紀から徳川幕府の政策で、一部の国以外との交易を禁止しました。

これは教科書でもお馴染みの「鎖国政策」です。
鎖国とは外国との貿易や交通をやめて、国をとざすことです。

日本では江戸時代初期にこの方針がとられ、幕末まで続きました。
ではなぜ徳川幕府は鎖国政策を取ったのでしょうか。

それは欧米諸国による植民地支配の危険性があると幕府が危惧したからです。

当時の欧米諸国のやり方は、まず宣教師を先頭にたて、神の意志を宣布するという宣教活動により、その国の人民の心を掴み、国の内側から支配していく方法をとっていました。

このような背景から幕府はキリスト教を禁止し、鎖国政策を取ったのです。

長短はあるかと思いますが、その結果として徳川体制の260年間は、国内外で一度も戦争は起きませんでした。
この長期間にわたり平和が続いたことに対して、世界の識者たちは「世界の奇跡」と呼び、今日にいたっても非常に驚かれています。

日本人は決して好戦的な民族ではありません。 

武力をもって他国を征服し、支配権を拡張することが認められた時代

では日本が鎖国しているころの欧米諸国の動きはどうだったのでしょうか。

まずヨーロッパでは18世紀がスペイン、ポルトガルの時代であり、19世紀に入るとイギリス、フランス、オランダの時代となりました。

18世紀後半、英国で起こった産業革命(1764-1848)で鉱工業は飛躍的に進歩し、各国はその資源の入手と製品の捌け口を獲得するため、右手に剣をかざし左手に聖書を掲げて、世界制覇に乗り出しました。

すなわち欧米諸国の海外進出です!

19世紀前半の世界地図を見れば一目瞭然ですが、ことにイギリスに関しては“わが領土に太陽の沈むところなし”と豪語し、重要資源のほとんどが英国を中心とした白人たちの手に握られました。

そして幕末のころには、彼らの植民地か支配権に入っていない国は、清(中国)の一部と、シャム(タイ国)、日本の三国しか残されていない状態になったのです。

日露戦争8

赤色に塗りつぶされている箇所は欧米列強の支配下

幕末の1853年に渡来したアメリカのペリー提督は、日本と仲良く貿易しようなどと、生易しい目的で来たわけではありません。

イギリス、フランス、ロシアも皆同様で、日本を属国に、あわよくば植民地にして自国の勢力圏に収めようという野望を持って遠く海を越えてやってきたのです。

アヘン戦争(1839-1842)で屈辱的条約を結ばされた清国の悲劇を目の辺りにした日本の恐怖は、とても現在人の感覚では想像できないものでした。

当時、白人たちは武力をもって他国を征服し、支配権を拡張することによって自国を発展させることは、世界通念上認められていた時代です。
このような時代背景でしたので、彼らこそは祖国に忠実な愛国者であり、勇敢な戦士であると自認していたのです。

現代では、帝国主義による拡張政策は「侵略」と呼ばれ、国家悪と考えられるようになりました。


しかし、それは「大東亜戦争」という試練を経て会得した人類の思考の進歩であり、多大の犠牲を払ったあげくに成し得た理念なのです。

富国強兵策は本当に国家悪なのか?

日本は明治維新になり、富国強兵策を取って先進国を見習う道を取りました。

薩英戦争や馬関戦争で欧米の強大な軍事力を目のあたりにした日本は、復讐の道をとらずに、友誼と学習の道を選んだのです。

当時、欧米諸国の帝国主義の鋭い矛先を突き付けられながら、懸命の努力でかろうじて独立を維持し、明治維新を成しとげた明治の先人たちの功績は実に偉大なものです。

戦後、米国上院軍事外交委員会の聴聞会でマッカーサー元帥が述べたように朝鮮半島の静謐が日本の安全に直結していることはいまも昔も変わりありません。
(これに関連する記事はこちらから)
なぜ日本をことを好きになれない日本人が多いのか?

日清戦争、日露戦争の両戦役は、朝鮮半島を実効支配しようとした清、ロシアの圧力を排除して、国防の安泰を図るための「自衛戦争」であって、日本がそのどれに敗れても今日の泰平がなかったのは事実です。

戦後、富国強兵策が国家悪のように言われていますが、明治維新の時代背景において、日本が欧米先進国に追いつくための唯一の方策でした。

もしそのとき欧米屈従の属国方策を取っていたならば、20世紀は完全なる白人支配の世界となり、もちろん大東亜戦争は起きなかったと思います。
そして今日の日本の発展もなく、諸民族自決の世界も出現しなかったでしょう。 

世界を震撼させた100年前の世界大恐慌

大正末期から昭和初期にかけた1920年代に、アメリカ国内では大不況が長引きました。

この大不況に対しアメリカ政府がとった政策が「ホーリー・スムート法」です。
この法律は輸入品に対して最小で50%から最大800%までの超高率の関税をかけるものでした。

当時のアメリカは自国の経済が世界に影響していることを知らなかったため、自国だけ生き延びるため施策を簡単に取ってしまったのです。
この影響で1929(昭和3)年にアメリカの株価暴落により世界大恐慌が起こりました。

事態を重く見たイギリス政府は、自分たちも早急に自給自足体制を整える必要があると、こちらも簡単に大英帝国圏内から外国製品を追い出しました。
当時のイギリスは植民地を含めると世界の4分の1の大規模を占める大国家です。

このように大国であるアメリカとイギリスがブロック経済をはじめてしまうと、さらに自給自足の出来るフランス、オランダ、ロシアの先進国も自国経済の立て直しのため、ブロック経済をはじめていったのです。

これを当時の言葉で「アウタルキー(autarky)」と呼びます。

アウタルキーとは「自己完結 経済単位」と訳されますが、簡単に言うと輸出入しないでも近代国家をして生き残ることができる国家のことで、それに対し自給自足の出来ない先進国を「非アウタルキー国家」と呼ぶのです。

ちなみに昭和初期に連合国と戦った日本、ドイツ、イタリアの3国は非アウタルキー国家でした。
この3国が1939(昭和14)年に『日独伊三国同盟』を結んだのも決して偶然ではないのです。
 

日本が大東亜戦争しなければならなかった一番の原因は、なんといってもこの資源問題です。

この石油を含めた資源が外部から必要な分だけ輸入ができれば、例えあの時代(アメリカやソ連の圧力があったという意味)でも戦争を回避できたと断言する学者が多いです。

昭和初期、日本はなぜ満州に出ていったのか?

アメリカで起きた世界恐慌による大不況は昭和5年ごろ日本に直撃しました。
当時の日本人は、そのころを思い出すと脂汗をかくというほど深刻なものでした。

日本はご存知の通りに資源がとぼしく目立った産業がありません。

また明治維新後、富国強兵策で近代化を図った日本にとっては、資源なくして技術の進歩はあり得ない時代で、その資源はことごとく白人たちによって握られていたのです。

そのため日本国内では生糸絹織物、陶器、漆器などの家内工業的産品しか輸出できる物はなく、しかもそれは最低賃金で牛馬並みの酷使による金額で、製品の輸出というより労働力の安売りといった方が適切なものだったのです。

東北地方の娘身売りも、そのころ起こったことで日本経済は完全に死に体となるのです。

日米開戦3

貧乏の子たくさんで狭い領土で増えるのは人ばかり、すぐとなりに横たわる広い大陸に出していったのは追い詰められた日本の取り得た唯一の国策であり、当時の帝国主義世界における当然の考えであって、この他に選択の余地はまったくなかったことを現在人は知らなければなりません。 

八紘一宇の大精神

戦前の日本には「八紘一宇」という大精神がありました。

八紘一宇とは、全世界をひとつの家のようにして、すべての民族は平等で平和に暮らすという意味です。
これは神道の偉大な精神に基づくものでした。

西洋の宗教は己の神しか認めないものに対し、日本の神道はあらゆる神を認める傑出した思想です。

当時の帝国主義の世の中のなかで、白人たちのアジア諸国の統治方法と、日本の台湾や韓国の統治方法が明らかに異なっていました。

例えば白人たちのアジア植民地政策は摂取・収奪・奴隷化などが常套手段であり、英国のインド支配の政策も、既存の教育関係を破壊し、諸民族をお互いに争わせ、言語の複雑化をはかり、民族をバラバラにしました。オランダのインドネシア支配も同様です。

このように彼らのやり方は決して建設的なものではなく、ただ自分たちの搾取を目的として、現地人を死ぬまで奴隷のごとく働かせるものでした。

それに対して日本の台湾や韓国の統治方法は、現地民族を差別しないで日本人と同等に扱ったのが大きな特徴です。
まずは学校を作り、教育に力を入れ、いままでバラバラだった民族の言語を統一しました。

そしてダムを作り、道路・電気・水道などのインフラも整えます。
そして驚くことに、これらの資金は現地人ではなく、内地に住む日本人の税金が使用されたのです。

日本人がおこなった満州国建国の大事業は、五族協和(満州民族・日本民族・漢民族・蒙古民族・朝鮮民族)の理想を唱え、満州国の溥儀皇帝のもとで諸民族の平等と平和の関係を育て、その投資は非常に建設的なものだったと言います。

日米開戦4

そのため当時欧米の識者たちは、人口3,000万人の満州国は10年後には人口1億人を越す大近代工業国家として東アジアの一角にその勇姿現すであろう、と、賞讃と期待をもって見守っていたほどです。

戦後、中国の領土となった満州は、現在にいたっても中国の工業の心臓部である点から見ても、満州の近代化は十分に証明されています。

「八鉱一宇」の事例をもう一つ紹介します。

第二次世界大戦中、ヒットラー率いるナチスドイツは連合国と戦争中に、ヨーロッパ大陸のユダヤ人を全滅させるために大量虐殺を行ないました。

その際、ヒットラーは日本に逃げてきたユダヤ人を排斥して欲しいと、再三日本政府に圧力をかけてきましたが、日本政府は最後の最後まで、ユダヤ人を排斥するのは「八紘一宇」の国是にそぐわないという理由で全面的に断り続けました。

このように日本は他民族を絶対に差別しないという「八紘一宇」の主張をどんな時でも貫いたのです。

ドイツから逃げるユダヤ人難民に日本の通過ビザを所得させ、6,000人のユダヤ人にビザをあたえて逃亡を助けた杉原千畝外交官の話は有名ですが、彼の行動も八紘一宇の主張のもとにおこなわれたのです。 

ですので日本がアジアに出ていったことは欧米列強のような侵略ではなかったのです。

日本制圧プランのオレンジ計画

アメリカは日露戦争直後の1906年に「オレンジ計画」という作戦を立案しています。

これはいろいろな国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これ計画のゴールは長期的な日本制圧プランでした。

つまり明治時代末期よりアメリカは日本を第一の仮想敵国とみなし、戦争準備に着手していたのです。

オレンジ計画は年々改訂され、最終的には日本の本土を無差別に焼き払って占領することまで盛り込まれていました。
これは日本人の大量虐殺を意味しています。

アメリカはそのような計画を、ヒトラーのナチスドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てたことはありません。

このように、「なぜ日本だけなのか」ということを考えるとき、やはりその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。
日米戦争の根深い原因が、そこにあるのです。

オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。

アメリカはまず満洲と中国への介入のために、中国の抗日運動を煽りたてます。
のちに日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があります。

アメリカは日本叩きのために、中国の混乱を利用しました。
また日中戦争が始まったとき、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのあからさまな支援もしていきました。

やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網など、日本への挑発を続け、最終的に日本に「ハル・ノート」をつきつけ、ついに直接的な武力衝突へと誘い込んでいったのです。 

開戦4か月前に日本への石油禁輸、ABCD包囲網を完成させる

第二次世界大戦(1939年)はドイツのポーランド侵攻によってはじまりましたが、ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前の灯火といったありさまでした。

チャーチルが英国首相になったのも、連敗に次ぐ連敗でチェンバレンが政権を放り出したからです。

このような状況を見てチャーチルが考えたのは、自国を救うためにはアメリカを戦争に引きずり込むという作戦です。

しかし当時ルーズベルトは、絶対に戦争には参戦しないという公約を掲げてアメリカ大統領に当選した背景がありました。

そこでチャーチルはまず日本とアメリカの間で戦争が起きるように仕向け、日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦うことになるように仕組もうとしたのです。

そこでルーズベルトと相談の上で、日本に対する石油禁輸措置を決定しました

石油をまったく輸入できなくなって困った日本は、オランダ領インドネシアに打診すると、イギリスとアメリカは、今度はオランダをそそのかし、19418月、ついにABCD(アメリカAmerica、イギリスBritain、支那China、オランダDutch)の包囲網を完成させるのです。

日米開戦1

ABCD包囲陣では日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置も取られましたが一番影響があったのは何といっても石油です。

なぜなら石油がなければ20世紀の国家は存続できないからです。

この件もあり対米戦争に難色を示していた海軍も覚悟を決め、御前会議で正式に戦争準備に入ることが決定されたのです。

これが日米開戦のわずか3ヶ月前です。

目下の石油備蓄領は、約半年分。
海軍が日米交渉の最終期限を12月半ばに設定した根拠は、ここにあるのです。

最初の一発を日本に打たせるためのハル・ノート

ABCD包囲網から3ヶ月後、19411126日にアメリカが提出してきた「ハル・ノート」は、まさに日本にとっては寝耳に水、想定外の要求でした。

その内容は、中国大陸や、仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げろというものです。

さらにアメリカの主張は、日本がこれらの要求をすべて呑めばABCD包囲網を解く、というものではありませんでした。

日本がこれらの要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかという話し合いに応じる、というものに過ぎなかったのです。

しかしビジネスの世界でもそうですが、人と交渉して相手に妥協を求める際には、自分たちの方でもそれなりの妥協を用意しなければならないものです。

国際政治の舞台でも同様です。

ところがアメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず、いささかの犠牲も払わず、ただ日本が要求を呑んで、丸裸になれという無茶苦茶なものでした。

こんな高飛車で理不尽な要求は、とうてい呑めるわけがありません。
もし仮に呑めば、こちらは丸裸になって、交渉する際の取引カードがなくなってしまうからです。

つまり、要求を呑んで丸裸になったあとに、「やはりABCD包囲網は解きません」と言われても、もうどうすることもできないのです。

ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係をなんとか修復したいと、必死の努力を続けてきました。

しかしこの要求を受け取ったとき、すべての努力が挫折したと知ったのです。

このとき日本国内に「事態ここに至る。座して死を待つより、戦って死すべし」という気運が生まれるのです。
そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かっていくのです。

リメンバー・パールハーバーはルーズベルトが仕組んだ

戦後、東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は、「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも、矛をとってアメリカに立ち向かうだろう」と述べたことは有名です。

なぜアメリカは、ハル・ノートというような無茶苦茶な要求をしてきたのでしょうか。

それはアメリカは、「オレンジ計画」にみられるように、いずれは日本を叩きつぶそう、屈服させようと思っていたからです。

真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意していたことは、今日では良く知られています。

ですが当時、アメリカ国民の大半は参戦に反対でした。
なぜならアメリカ人の多くは、かつての大恐慌の悪夢からようやく立ち直り、安定した生活を手に入れたばかりだったからです。

ですからできることなら、他国との戦争などにかかわりたくなかったのです。

そうした中、ルーズベルトはなんとか日本と戦争をし、日本を屈服させられる案がないか考えました。

そこで考えついたのが、日本に先に手を出させることでした。

もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争やむなしと思うに違いありません。
アメリカは、西部劇にもみられるように決闘の国であり、先に相手に銃をぬかせてこそ、大義名分が立つのです。

そこでアメリカが用意したのが、「ハル・ノート」だったのです。

これをつきつけるなら、日本は牙をむいて、刃向かってくるに違いない――そう踏んだわけです。

もちろん、こうした国運をかけた重要な外交文書が出すのには、当然、アメリカ議会の承認が必要です。

ところがハル・ノートは、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本につきつけられました。

これが日本に出されたことは、ルーズベルトと、幾人かの側近だけが知っていただけです。

真珠湾が攻撃されたとき、ほとんどのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りません。
アメリカ国民は、自分たちに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わなかったのです。

真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだとき、喜んだのは自国のルーズベルトだった!?

当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点となっていました。

1941128日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃、破壊しました。日米開戦

真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだとき、喜んだのはルーズベルトです。
なぜならこれでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。 

当時のルーズベルト側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いたとき、大統領は「安堵した」といいます。
それは彼の念願がかなったからです。

そののち、ルーズベルトはアメリカ国民の前に出ると、急に顔をこわばらせて怒りをあらわにし、これを日本の「卑怯なだまし討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。

さらに、「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせていったのです。

まとめ

このように、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありません。
むしろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢のないところに追いこんだのです。

もし戦争責任ということを言うなら、それはアメリカにも日本にもあったのです。

戦争はあってはならないものです。

しかし日米は戦争をしてしまいました。
その責任は双方にあったのです。

日本は中国大陸に戦線を拡大する過ちをおかしました。
アメリカは、日本を戦争へと挑発しました。

双方がそういう過ちを犯したということを、現代を生きる私たちは認識しなければなりません。

今の日本は、自虐的な歴史観に陥っています。

日本がすべて悪かったと・・・

そして、あの当時の政治家や軍人たちはみな狂っていたと・・・

しかし、そうではありません。

当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入していったのです。

そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。

もちろん、失政や失策もあったと思います。

あとから「ああすればよかった」「こうすればよかった」ということも事実だと思います。

しかし問題は、あの状況まで追い込まれたとき、それ以外には選択肢はあったか、ということを考えてほしいのです。

自国の歴史を忘れた民族は滅びます!!

日本人としてどのような言い分があって開戦(大東亜戦争)の止むなきにいたったことについて、少なくても私たち日本人は知っておくべきです。

現在の政治も経済の流れも70年前の延長線上にあります。
そしてこれから先の未来も現在の延長線上にあるからです。

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