日本の歴史から学ぶ、日本人の精神性

台湾から、、日本人は、日本人であることを大いに誇っていい!

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加納聖士です。

かつて日本の統治下にあった台湾。
そこでは西洋列強が行った植民地支配とは似て非なる政策が次々に展開されていきました。

のちに日本と台湾の架け橋の釘一本になりたいと、通訳、日本語教師を務めた楊 素秋(よう そしゅう)さんは、台湾の日本統治時代の自身の体験をもとに『日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)という本を2003年に出版されました。

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私はこの本を読んだとき、戦後、日本人が失ってしまった「日本人としての誇り」を台湾に住む楊さんが持っていることに驚くと共に、日本人以上に日本を愛して下さっている彼女に心から感謝しました。

そこで今回は楊さんの日本人と日本観についてご紹介していきます。

いまでも日本は心の故郷

台湾は明治27年(1894年)から明治28年の日清戦争後の下関条約によって清国から日本へ割譲された島で、これより50年の間、日本による統治が行われました。

戦後、私たちは「台湾は日本の植民地だった」と学校教育やマスコミによって刷り込みが行われてきましたが、実際は内地延長主義であり、同化主義でした。
同化主義といっても強いものではなく、その土地の民族の文化や性格を研究し、それに合わせた型で寛容的に接しました。

楊さんは日本統治下の昭和7年に台湾・台南市に生まれました。
日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっていて、楊さんが生まれてからは家庭でも日本語で話をしていたそうです。

日本による統治は終戦を迎えた昭和20年まで続き、楊さんにとって、いまでも日本は心の故郷だと言います。
楊さんのお知り合いも「母国は日本である」と心から信じ、日本人であることに誇りを抱いています。

白色人種は神の子

楊さんは第二次世界大戦は、西洋と東洋の戦争だったと言っています。
日本は東洋の代表として戦かったのです。

わずか百年前、世界では白色人種のみが、「自分たちは神の子である」という強烈な優越感を持って、皮膚の色や文化の異なるアフリカやアジアの国々を競い合うように次々に植民地にしていきました。

しかも白人たちは、現地の人たちを奴隷のようにこき使って、その国の食物や鉱物などを搾取していったのです。

幕末のころになると、彼らの植民地や属国になっていない国は、日本、タイ、清国の3ヶ国となるのです。

わが国には昔こういう偉い人がいたんだよ

楊さんは自分が生まれる前の台湾のことは知らないと前置きしたうえで、この世に生をいただいて、「おぎゃー」と産声を上げた瞬間から、体内に吸い込んだ空気は日本という国の空気だったと言います。

学校では朝日に輝く国のシンボル「日の丸」を国旗に仰ぎ、厳かな国の賛美歌である「君が代」を国歌として奉唱し、国のバイブル「教育勅語」の奉読に耳を傾けて、一字一句聞き逃さないように記憶と細胞に刻み込んだと言います。

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学校の授業では、とくに「修身」の時間が好きでした。
1週間に一回の授業でしたが、先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれました。

楠正成、二宮金次郎、宮本武蔵、吉田松陰、明治天皇、野口英世、東郷平八郎、乃木希典、これらの人物が艱難辛苦を乗り越えて立派な人になった、という話に感動して、楊さんも自分もそうなりたいと本気で思ったそうです。

先生は「わが国には昔こういう偉い人がいたんだよ」という具合に教えてくれたそうです。

「日本には」とは言わなかったのです。
だから楊さんも「わが国」と覚えていったのです。

明治天皇の御歌

毎朝の朝会では明治天皇の御歌などを朗詠しますので、楊さんたちも自然に覚えるようになりました。
その中にこういう御歌があります。

新高の 山のふもとの 民草も 茂りまさると 聞くぞうれしき

新高とは台湾の代名詞です。

つまり明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれたのです。

このように楊さんたちは「日本人であることの誇り」や、「真摯、実直を旨とする大和魂」を学び、「精神一致何事か成らざらん」の人生哲学にわずかながら触れることができました。

だからこそ大東亜戦争が勃発したときに、「母国を守らん」と、自ら特攻隊を志願して戦地に飛び立った台湾の青少年たちが次々に現れたのです。

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日本の台湾統治の真実

日本に統治された台湾は、世界の多くの植民地とあらゆる面で異なっていたと楊さんは言います。

日本政府が最初におこなったことは、日本人の医師と看護婦を台湾に送り込んだことでした。
これは蔓延する疫病を駆除するためで、併せて都市部の衛生面、環境面での整備も兼ねてです。

日本時代の台湾の町の特徴は、とにかく清潔だったと言います。

朝早く起きて、戸を開け、まず家の掃除。
その後、家の前の道を掃きますが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげます。
そうすると、今度は隣の家が翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのです。

道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車なども朝早くやってきます。
こういう作業員はみな日本政府に雇われていました。

かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ばれた台湾の衛生状態を改善することに力を入れたのです。

次に楊さんの住んでいた台南市に、日本人の手によって上下水道が敷かれました。

それまで川や井戸から水を汲んで水がめに蓄えていた生活を、蛇口をひねれば水が出てくるという衛生的でしかも生活しやすい環境に変えたのです。

しかもそうした取り組みは日本の内地に住む日本人の税金からで、さらに日本の田舎よりも台湾を優先させたのです。

台湾を文明の地に導く

衛生環境面での改善と相次いで、日本は台湾人に学問の門戸を開きました。

具体的には学童たちを集めて、日本人と台湾人の間でお互いに意思の疎通が図れるようにと言葉の教育から始まり、そこから医学、工業、農業などを通じて台湾を文明の地に導いていきました。

当時の台湾は、13部族の原住民などが様々な言葉をしゃべっていたので、同じ台湾人同士でも意思の疎通がままなりませんでした。
それが日本語の普及により解消されるのです。

そういった努力のおかげで、明治32年にはわずか2%だった児童の就学率が、わずか45年後の昭和19年には92.5%にまで達したのです。

戦後、東洋における医学方面での研究成果は「台湾は日本に次ぐ」と言われてきますが、これも元をたどれば、日本が文明の息吹を台湾の地に吹き込み、新しい文化と知識の種蒔きをしてくれたおかげだと楊さんは言います。

さらに日本統治時代の台湾の治安は良かったと言います。
今の台湾では窓に鉄格子をしていますが、当時は鉄格子のない家で、戸締りしなくても安心して眠ることができたのです。

楊さんの家の前には派出所があり、日本人のお巡りさんがいたそうです。
楊さんが時々落し物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と頭を撫でて褒めてくれました。

「公」のために生きなさい

楊さんは台南師範学校付属国民小学校というところに通いました。

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先生方はほとんどが日本人です。

一年生の時の受け持ちは宮本先生という、とても気立てのよい先生が担任でした。
宮本先生は優しくて、よく頭を撫でて褒めてくれたので、本当に大好きでした。

もちろん宮本先生だけでなく、どの先生方も優しい人ばかりでしたが、厳しい面もありました。

たとえば時々拳を振るうこともありましたし、女の子にもピンタを振るうことがありました。
でもそれは決して腹を立てて感情に任せるのではなく、その子が悪いことをした場合だけに限られていました。

子供を正すために叩くというのは、生徒に対する愛情がなければできません。
実際、叩かれた生徒たちは先生の愛情を感じて、自分が悪かったのだと素直に反省したそうです。

このように宮本先生に限らず、当時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築きました。

それから楊さんがよく覚えているのが、ある時の担任の先生が黒板いっぱいに大きな字で「公」と書いて、そのすぐそばに「私」という字を小さく書いたことです。
これは「私」というのをなるべく小さくして、「公」のために生きなさいという教えです。

これこそ「修身」です。

私事を小さくするのが国民の誉れであって、それが国家と国民のあるべき精神だと教えてくれたのです。

それからもう一つ挙げるとすれば「教育勅語」だと言います。
この中には「人間とは何ぞや」「人間の果たすべき責任とは何ぞや」がわかりやすく説かれています。

「人間の道理」と学ぶべきことをこれほどまでに凝縮したものは、後にも先にも楊さんは見たことがないと言います。

日本の兵隊さん

昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる田舎に疎開しました。

そこにも日本の若い兵隊さんたちがいて、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになりました。

兵隊さんが時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美(日本名)ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれました。
楊さんは「はーい」と言って元気に家を飛び出します。

5年生で小さな楊さんは周りが皆、兵隊さんばかりで画面が見えなかったので、いつも肩車してもらったと言います。

日本の兵隊さんは命の恩人

昭和20年の春、13歳の楊さんは第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するために、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立っていました。

最初は軽く考えていましたが振動と風圧が思った以上にあり、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まりました。
参考書などを詰めた重いリュック、3日分の米と野菜を入れた布袋2つを両腕に持っていたこともあり、しだいに手の力が無くなっていきます。

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隣に立っていた20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞いてきましたが、もう返事をする気力も残っていません。
将校さんが楊さんが真っ青な顔をしていたので「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と怒鳴りました。

その時ちょうど汽車は鉄橋にさしかかります。
鉄棒から片方の手を離して荷物を捨てた瞬間、「ゴー、ゴー」と鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、思わずステップから左足を外してしまったのです!!

「助けて」と叫ぼうとしたそうですが、目の前が真っ暗になって、そのまま意識を失いました。

遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってきました。
誰かが頬を叩いています。

「気の毒にね。いたいけな子供が。顔が真っ青だよ」
「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな」

気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていました。

おばさんはニコニコしながら「ああ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、楊さんのおかっぱ頭を撫でました。

台南駅につくと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれました。
窓の外には、あの将校さんが待ち構えていて、楊さんを抱き降ろしてくれました。

他の人に尽くす力も与えてくれた

汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれました。

下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに・・・

「あのう、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽車に乗り込みました。
爽やかな笑顔でした。

汽車が遠くかすんで見えなくなるまで、楊さんは将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながらそこに立ちすくみました。
楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかったと70年以上経った今でも悔やむことになります。

生きている間にもう一度お会いして、お礼を言いたい・・・
そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育てあげました。

それはあの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたからです。

下記は楊さんの実際のインタビュー動画です。
ぜひご覧になってください。

突然、日本人から中国人になる

そうした楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げます。

戦後突然、「君は今日から中国人だ」と言われた時には、多くの台湾人と同じように「なぜ、どうして?」と深い悲しみに襲われました。

当時台湾には6百万人の台湾人が住んでいましたが、終戦を迎えた直後に、楊さんたちの同意を得ることもなしに勝手に国籍を変えられてしまったのです。

それから間もなく、シナ大陸で自国同士の権力闘争に負けて行く先を失った蒋介石率いる敗残兵(国民党軍)が台湾にやってきました。

シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いています。
こんな兵隊がやってきて、これから先の台湾はどうなるのかと、楊さんたちは心配になりました。

彼らは「親愛なる台湾人よ。わが同胞よ。祖国の戻れ」と美辞麗句を唱える一方、何の罪もない有識者を銃で次々に殺していったのです。
台湾を統治しやすくするために、知識分子を抹殺したのです。

その後、1年も経たないうちに今まで戸締まりしなくても安心して寝ていられたのに、楊さんの家の自転車が盗まれてしまうのです。

2•28事件から台湾人の虐殺がはじまる

終戦2年目の昭和22年2月28日には、蒋介石の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こしました。
いわゆる2・28事件です。

そのきっかけは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取り上げ、銃で殴っているのを、日本海軍から戻ったばかりの台湾人の若者が守ろうとしたことでした。

これを機に暴動が起こり、これを鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が中国人に殺されていったのです。

楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見守る中で銃殺されました。

その理由は学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やした罪です。
湯さんの奥さんが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついたのです。

歯向かう武器を持たない台湾人は逃げ場もなく、袋叩きにされても訴え出る場所もありません。
泣くことも許されません。

母国を失い、太平洋の孤児となってしまった台湾人が助けを求めて差し伸べる手を神様までもが見捨てられてしまったかのように、この悲劇はいつまでも続くのです。
その後、蒋介石政権の戒厳令は40年間続きました。

ようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは「私は22歳になるまで日本人だった」と語る前総統・季登輝の時代になってからです。

もう一人の少女

最後に2006年 金美麗さんが靖国神社で語った歴史に残る 有名な名講演の動画も紹介したいと思います。

11歳まで、私は日本人でした」 と語る、日本統治下に生まれた台湾人 金さんが、靖国神社で語ったこの講演は、私自身の魂を揺り動かし、現在このような活動をすることのキッカケになった動画です。

まだ見られたことがない方ははぜひ一度ご覧ください。
日本人として本当に襟を正して生きなければならないと猛省した動画です。

まとめ

この楊素秋さんの書かれた『日本人はとても素敵だった』や金美麗さんの「靖国神社の名講演の動画」は、戦後教育を受けたすべての世代に見てほしい心の教材です。

インターネットが一般的になってきた、ここ10年くらいのことでしょうか、やっと過去の大戦の本当の姿がちらほらと発信されるようになってきました。

私たち戦後生まれの日本人は、今思うとかなり左寄りの教育を受けてきたと思います。
私の小学校の時代の担任も、堂々と授業で『自衛隊は違憲だ!』と言っていましたから、、、

そしてその先生も含め、日本人はアジアで想像を絶する悪事を戦争のドサクサにまぎれて行ってきたとテレビや新聞も通じていろいろな媒体で教えられてきました。

もし、いまでもテレビや新聞しか無かったなら、きっとこのような本や動画も日の目を見ることは無かったことでしょう。

私たちには誇るべきご先祖様がいて、戦争の最中もその誇りを忘れず、立派な行いをした日本人が数多くいたことを、現在を生きる日本人は必ず知るべきです。

戦争の悲惨さばかり強調されていますが、これからの時代はむしろ、わが日本人のご先祖様を含め、日本人は何を考え、何を大切にし、どう生きたのかの日本民族のアイデンティティーを知ることの方がよほど大切です。

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加納 聖士

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